千葉一族盛衰記 第三十八話「義朝は、常胤にとって何者だったのか 後編」【稲毛新聞2026年9月号】
千葉
2026/9/24

前戦場で結ばれた可能性
前稿では、常胤と義朝が、相馬御厨の攻防によって作られた「微妙な」あるいは「一定の緊張感がある」関係性をもとにつながっている可能性を検証しました。その二人が再び歴史の中で交わるのが、1156年の保元の乱です。『保元物語』には、常胤は義朝方の軍勢として名を連ねています。
もちろん、この記録だけで二人の関係を詳しく語ることはできません。しかし、もし常胤が義朝と同じ陣営で戦ったのであれば、その経験は決して小さなものではなかったでしょう。
戦場とは、生死を分ける場所です。
そこで同じ旗の下に立ち、ともに勝利を目指した経験は、寄進文書や所領をめぐる駆け引きとは別の重みを持ちます。
相馬御厨では利害が対立したとしても、一度戦場で命を預け合った経験は、その後の二人の関係に少なからぬ影響を与えたとしても不思議ではありません。
義朝の最期
その義朝も、1159年の平治の乱で敗れます。敗走の末に討たれ、その名門源氏は壊滅的な打撃を受けました。一方、この戦いに常胤が参加していたことを示す確実な史料は、現在のところ確認できません。
むしろ、その後も千葉一族が房総における基盤を維持し続けたことを考えれば、常胤が義朝方として深くこの戦いに関与していた可能性は高くないように思われます。
とはいえ、それは義朝との縁が消えたことを意味するものではありません。前九年・後三年の役以来続いていた可能性のある源氏との関係。相馬御厨をめぐる義朝との接点。そして保元の乱で同じ陣営に立った可能性。これらを考え合わせれば、義朝という人物は、常胤の記憶に深く刻まれていたはずです。
その意味で、義朝の死は、常胤にとって一人の武将の敗北以上の意味を持っていたのではないでしょうか。そして義朝には、一人の遺児が残されました。その名は、源頼朝。伊豆へ流された若き流人を、常胤はどのような思いで見つめていたのでしょうか。
前稿では、常胤と義朝が、相馬御厨の攻防によって作られた「微妙な」あるいは「一定の緊張感がある」関係性をもとにつながっている可能性を検証しました。その二人が再び歴史の中で交わるのが、1156年の保元の乱です。『保元物語』には、常胤は義朝方の軍勢として名を連ねています。
もちろん、この記録だけで二人の関係を詳しく語ることはできません。しかし、もし常胤が義朝と同じ陣営で戦ったのであれば、その経験は決して小さなものではなかったでしょう。
戦場とは、生死を分ける場所です。
そこで同じ旗の下に立ち、ともに勝利を目指した経験は、寄進文書や所領をめぐる駆け引きとは別の重みを持ちます。
相馬御厨では利害が対立したとしても、一度戦場で命を預け合った経験は、その後の二人の関係に少なからぬ影響を与えたとしても不思議ではありません。
義朝の最期
その義朝も、1159年の平治の乱で敗れます。敗走の末に討たれ、その名門源氏は壊滅的な打撃を受けました。一方、この戦いに常胤が参加していたことを示す確実な史料は、現在のところ確認できません。
むしろ、その後も千葉一族が房総における基盤を維持し続けたことを考えれば、常胤が義朝方として深くこの戦いに関与していた可能性は高くないように思われます。
とはいえ、それは義朝との縁が消えたことを意味するものではありません。前九年・後三年の役以来続いていた可能性のある源氏との関係。相馬御厨をめぐる義朝との接点。そして保元の乱で同じ陣営に立った可能性。これらを考え合わせれば、義朝という人物は、常胤の記憶に深く刻まれていたはずです。
その意味で、義朝の死は、常胤にとって一人の武将の敗北以上の意味を持っていたのではないでしょうか。そして義朝には、一人の遺児が残されました。その名は、源頼朝。伊豆へ流された若き流人を、常胤はどのような思いで見つめていたのでしょうか。
【著者プロフィール】
歴史噺家 けやき家こもん
昭和46年佐倉市生まれ。郷土史や伝説をわかりやすく、楽しく伝える目的で、落語調で歴史を語る「歴史噺家」として活動。著書に「佐倉市域の歴史と伝説」がある。
歴史噺家 けやき家こもん
昭和46年佐倉市生まれ。郷土史や伝説をわかりやすく、楽しく伝える目的で、落語調で歴史を語る「歴史噺家」として活動。著書に「佐倉市域の歴史と伝説」がある。






